長谷場:ガス田の発見からしばらくして、パイプラインが完成する前年となる1980年12月、タイ政府は首相を委員長とする開発委員会を立ち上げ、82年11月にイースタン・シーボード開発計画を決定しました。この決定の背景に「日本から支援をもらう約束を取り付けた」ということがあります。
ミィ:タイだけでは開発できないと。
長谷場:タイ政府がイースタン・シーボード開発計画を検討していた81年1月に日本の鈴木善幸首相(当時)がタイを訪問、同年11月にはタイのプレム首相(当時)が日本を訪問しています。この時にタイ側から「イースタン・シーボードの開発に日本が全面的に協力してほしい」という要請があったんです。
ミィ:えー、すごい。計画の検討段階から要請があったんですね。
長谷場:はい。もちろん日本側は喜んで協力するということになりました。そして、国際協力機構(JICA)が開発の基本計画(マスター・プラン)を策定したり、建設や工事に対して低金利で日本政府がお金を貸す(円借款:ODAのひとつで有償資金協力)ことになったんです。
ミィ:全面バックアップですね。
長谷場:82年11月に大きく分けて次の2つの開発計画が決定されています。
①マプタプット地区に天然ガスを利用した化学肥料、石油化学、ソーダ灰等の重化学工場地帯を建設し、そのための工業港も建設する。
②レムチャバン地区に労働集約型の軽工業地帯を建設し、商業港を建設する
ミィ:港2つに工業地帯2つ。さらに化学工場まで!! きゃー、すごーい!
長谷場:しかし、このイースタン・シーボード開発計画はタイにとって初めての大規模な開発計画でした。だから難題山積です。当時、タイにいた日本人は「こんな壮大な計画が実現する訳がない」と笑っていたそうです。そして、その予想は“ある意味で”あたってしまいます。
ミィ:え〜、なんでー。
長谷場:85年になってタイの財政事情の逼迫から「特に外国からお金を借りて行うプロジェクト」について見直しをすることになってしまったんです。もちろん、円借款で行うことになっていたプロジェクトもです。
ミィ:そんなー。日本は首相からの依頼でお金出すことになったのに?
長谷場:まぁ、そうなのですが・・・。最終的に「港湾をはじめとするインフラ・プロジェクトについて、当初は必要最小限の規模で建設し、その後、段階的に整備を進めていく」という非常に現実的な結論になったんです。
ただし、ソーダ灰プロジェクトのように「採算性が低い」という理由で中止になったプロジェクトもありました。
ミィ:タイらしいですね。ソフトオープン的な。
長谷場:「段階的に」となったため、日本の円借款も例えばレムチャバン港は84年、86年、90年の3回に分けて229億円、マプタプット港は84年、85年、91年の3回に分けて251億円を出す契約がされています。
この他にも、水が少ない地域だったので送水管の建設にも円借款が使われました。こうして、イースタン・シーボードの開発は少しずつ進むことになりました。
ミィ:良かったぁ。ゴーゴー♪
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