タイ国日本人会の会長、島田厚さんにお会いしたのは3回目。
この「バンコク人間模様」のトップバッターを快く引き受けてくださったのだが、とにかく馬力を感じる方なのである。
それはオーラというよりもまさしく馬力であり、少々重たいものでもぐんぐん引っ張っていく、まるで4輪駆動車のような頼り甲斐がある。
そんな島田さんとタイの縁の始まりは1990年にさかのぼる。
当時の勤務先だった三井物産の海外駐在としてタイへの赴任を命じられてのことだった。
日本はバブル景気たけなわの頃で、きっと現在とは程遠いすごい待遇で赴任していたのだろうとついつい余計なことを勘ぐってしまう。
その際の駐在期間は5年で島田さんは本帰国。
ところが2001年に再度タイへの赴任命令が出た。
商社マンは海外勤務が多いのが常。
しかし同じ国へ赴任することは少ないという。
けれども2009年にはなんと3回目のタイへの赴任となった。
つまり三井物産時代に計3回、延べ12年間もバンコク駐在として過ごしたことになる。
そして2013年に3回目の赴任を終えて帰国。
数年後に定年を控えている島田さんはこの時、少し悩んだという。
長かった商社勤務とはいえ、そのうちの12年間もタイにいたのだからタイへの想いもひとしおなのは当然。
そんな時に舞い込んだのが、駐車場を開発する日本企業のタイ法人でのポストだった。
もちろん「定年後は日本でのんびり過ごす」 という選択肢もあったのだが、4輪駆動の島田さんはそれを選ばなかった。
対日感情がよく、独特のゆるい気質に満ちたタイ社会ではあったが仕事もしやすく、出会った人にも恵まれたという。
そして現在、島田さんはタイ国日本人会の会長を務めている。
きっかけは前会長の大橋さんに頼まれてのこと。
三井物産を退職して再びタイの地を踏んだ2年目の頃だった。
当初は理事として入会し、その翌年に会長となった。
駐在時代は仕事中心の生活だったが故、日本人というよりも会社関係のつながりを主に意識して暮らしていたが、これを機に考え方が変わったという。
世界各国の都市に暮らす在留日本人の数で言えば、バンコクはロサンゼルスに次いで2番目。
そんな大きな日本人社会における日本人会の役割も少しずつ変化してきていると、島田さんは感じている。
どちらかといえば日本人同士の絆づくりに注力していたのがこれまで。
これからはタイ社会との触れ合いの場を多くつくっていきたいとのこと。
つまり、日本人会を通して日本人としてタイの人々とさらに懇親を深めていこうというのだ。
かつての日本人会は、在タイ日本人へ向けてタイの生活情報を提供する役割を担っていたが、今はもうそんな時代ではない。
情報提供はメディアやインターネットに任せればよいことで、日本人会は日本人同士やタイ社会とのコミュニケーションを深めていくための組織でありたいという。
実際にタイ国日本人会の本館を訪れてみると、なにか公民館に来たような安心感を覚えるのは確かだ。
これは不思議な感覚で、タイに長く住んでいる人ほど感じる独特のフィーリングではないだろうか。
「そう、町内会みたいなものなんですよ。特にこれっていうものはないのだけど、ここに来るとなんとなくホッとする。そんな拠り所的な存在であることが大切かなと思っています」。
かつて商社マンとして活躍していた四輪駆動の島田さんだが、この時は心なしか公民館の館長のような笑顔でこう語ってくれた。