「吉田さんが来るっていうんで、さっきドーナツを買ってきたんですよ」
インタビューのためにオフィスへ伺うと、伊藤さんは開口一番こうおっしゃった。
はっきり言って、これは素晴らしき反則である。
そもそもエッジの効いた際どい質問などするつもりはなかったが、そのつもりがあったとしても、これじゃあできないだろう。
伊藤信行さんは「PERRY JOHNSON REGISTRARS, INC.」の代表。
アメリカに本部があるISO審査登録機関のタイ支店でゼネラルマネージャーを務めている。
お会いしたのは3回目か4回目だが、いつも惚れぼれとする笑顔で迎えてくれる。
この日もそんな笑顔に、しかもドーナツ(たぶんクリスピー・クリーム)が付いてきたのだから、話しが弾まないわけがない。
伊藤さんはかつて三井造船に勤めていた。
造船という名がつく会社ではあるが、船だけではなく発電所や石油化学プラントなども造っていて、最初の所属部署は造船。
そこで働き始めて約3年後、なんと会社から青年海外協力隊に参加せよという辞令が出た。
自社の知見や技術を海外へ出かけて広めてこいというわけだ。
そして伊藤さんはフィリピンへ向かうことに。
任務は溶接の指導である。
伊藤さんは元々電気畑のエンジニアで、鉄板を切った張ったしながら船を造るうえで不可欠となる電気溶接のプロフェッショナルだったのだ。
フィリピンのマニラでは職業訓練校の教師を対象とした指導者として、およそ2年半を過ごす。
そんな生活の中で出会ったのがフィリピン人の奥様である。
この時点では伊藤さんとタイの接点は見つからず、むしろこのままフィリピンに住んでしまうというのがよくありそうな成り行き。
ところが人生というのは、やはりなかなか筋書き通りにはいかない。
派遣期間を終え、奥様と一緒に日本へ帰国。
そして、転機が到来する。
それは1980年にタイで初めて天然ガスが出たことに関係するというから人生はわからない。
タイの本格的な工業化がここから始まり、伊藤さんもその波に乗る形で、1984年に肥料工場の建設エンジニアとしてタイに数年間赴任し、これがタイとの初めての出会いだった。
さらに決定的な変化が起こったのは2000年のこと。
クリスチャンである伊藤さんがハワイでのミッションに参加した際、まさに“神さまのお告げ” があったという。
「神さまは自分の保障から出なさいと言いました。僕はこれを自分を守っている“会社”からいったん離れてみろ、というふうに解釈したんです」。
伊藤さんはその神さまの声を信じて三井造船を退職。
その後、神様はすっかり沈黙してしまったのだが、伊藤さんはエンジニアを対象としたコンサルティングの仕事に就いていた。
2002年、そこに舞い込んだのが現職の話だった。
コンサルティングで培ったスキルをISO審査登録機関で活かすのが次のミッション。
しかも勤務地はかつて赴任していたタイのバンコクで、これはもうまさに「渡りに船」だった。
バンコクに移り住んで20年余。
“あの時”以来、神さまは黙ったままだが、きっと無言でさまざまな縁や絆を創造しながら人生を導いてきたのだろう。
僕はドーナツをいただきながら、伊藤さんと知り合いになれて、なんだか本当に良かったと思っている。