岡さんとお話ししたのは、今回のインタビューが初めて。
本来ならもっと早くお会いしていて当たり前だったのだろうが、やはりコロナ禍がこういった巡り会いにも水を差していたのかもしれない。
ただ、不思議なもので初めて会ったのではなく、なんだか「お久しぶりです」というのがファーストインプレッション。
時々こういう感覚になることはあるが、やはりそのお人柄が僕の気持ちをそうさせているのだと思う。
岡さんはスクンビット・ソイ49のラケットクラブにある「ボイスホビークラブ」の代表。
バンコクに住む日本人なら知らない人がいないと言っても過言ではないカルチャーセンターで、子どもから大人までを対象にした多彩なプログラムを提供している。
前身である語学学校の設立が1988年で、現在の場所でボイスホビークラブを開業したのが1993年。
なんと足掛け30年以上も続いているのである。
今でこそバンコク在住者の重鎮としてこのクラブを主宰する岡さんだが、かつては神戸のワールドのデザイナーで、帽子、バッグ、スカーフ、アクセサリーから靴までトータルデザイナーとして活躍。
そんな人がなぜバンコクに住むようになったのかはとても気になるところだ。
そのきっかけは1986年に遡る。
当時バンコク駐在だったご主人との結婚を機に初の来タイ。
いわゆる“駐妻”として、今とはまったく事情も環境も異なるバンコクでの暮らしを始めた。
「本当はフランスに遊学する予定だったのですが、人生ってわからないですよね。ジュエリーデザイナーとして復帰しようとした矢先、主人がオフィスをスクンビットに移し、僅か3ヶ月半でカルチャーセンターを開く事になったんです」。
そんなふうにさらっと話してくれる岡さんだが、30年以上も前のバンコクでの暮らしはさぞ大変だったに違いない。
僕が最初にタイを訪れたのは1989年だったが、BTSなんてもちろんないし、タクシーは本当にポンコツ。
空港だってバンコクにはドンムアンしかなかった。
もちろんインターネットもないし、日本食店を見た記憶もない。
それでも、当時の駐在員家族はそれなりに優雅な暮らしをしていたという。
「当時バンコクの駐妻さんといえば、タイ語学校でお友達を作ったり会社単位の奥様会が暮らしの中心。日系デパートは大丸、そごう、東急がありましたけど、日本食材は乏しくてしかも高額でした」。
そのように日本と環境が大きく異なる当時のバンコク。
そこで岡さんは、タイで生まれ育った子どもたちにも日本の歳時記や五感を教えたいと思い立ったのだ。
当初は自分と友人の子どもを対象にスタートし、やがて駐妻さんたちのために“在タイ期間を有意義に”というテーマをもとに少しずつ講座を広げていく。
15年前から10年間はバンコクFMラジオ『DJ.NORIKOの雑学講座』という番組の企画・MCも担当。
また、奇数月に行っている『ハンドtoハンドプロジェクト』もすでに18年主催。
タイの恵まれない人々に、まだ使える不要品を寄付している。
岡さんの活動は世界の関係機関から「海外日系最大カルチャーセンター」というお墨付きも出ているほどだからすごい。
「大半の方にとって、タイは人生の中のほんの数年を過ごす場所。だからこそ、ここでの思い出がより素晴らしいものになるように、これからもお手伝いをさせていただきたいです」。
岡さんはこのバンコクで、ボイスホビークラブを通じてこれからもずっといろんな絆を紡いでいくことだろう。