2005年バンコクに開校したインドアテニスアカデミー
APF international tennis academies
まさに“名コンビ”の金子さんと酒井さん
2005年からバンコクでテニスクラブを運営する「APFアカデミー」代表で、プロテニス選手として輝かしい実績を持つ金子さんとヘッドコーチを務める酒井さん。
来年で20年を迎えるテニスクラブだが、2人の軌跡はAPFアカデミーと共にある。
酒井さんにバンコク人間模様のオファーをした際、酒井さん自ら「金子も一緒にお願いします。」との申し出があり、今回初となるダブル出演となった。
私は、その行動が酒井さんというお人柄を表していると思っている。
酒井さんのブログやSNSを見ると、自身も数々の優秀なジュニアを輩出してきた名コーチでありながら、常に金子さんへスポットライトが当たるよう発信する姿が見て取れる。
特に登録者3万人を超えるYouTubeチャンネル「YouTubeテニス倶楽部」では、金子さんの技術を伝えるには酒井さんの引き出し力あってこそ、金子さんの良さが視聴者に伝わるのだと感じた。
まさに“名コンビ”といった印象だ。
出会いは2004年
そんな金子さんと酒井さんとの出会いは2004年に遡る。
当時、山形で教員をしていた酒井さんの心の中に“テニスをやりたい”という思いがくすぶっていた。
そんな中、目に止まったのがテニス雑誌の記事に書かれていた”仲間募集中”の文字。
当時、金子さんはシンガポールでテニスクラブの立ち上げに伴いスタッフを募集していたのだ。
連絡をするもすでにシンガポールの募集枠は埋まっていたが、酒井さんは諦めることなく1年後に再度応募して見事チャンスを掴み取る。
だが、シンガポールへの渡航を待ちわびる酒井さんの元に一通のメールが届いた。
「亮太、バンコクになるかもしれない・・・」
当時を振り返り、「本当にその一文だけだったんです。給料すら聞いてなくて、とにかく30万円だけを持ってバンコクに飛びました。」と語る酒井さん。
タイの空港に着いてタクシーに乗り込むも、目的地とは違う場所に降ろされる始末。
なんとか近くのトゥクトゥクに乗り込むも、ボッタクリという”タイの洗礼”をしっかり浴びたのち、やっとの思いで金子さんと対面できた時のシーンは今でも忘れられないのだそう。
その後、金子さんをはじめ当時の仲間と共に立ち上げたのがAPFアカデミーの前身となる「サンワテニスアカデミー」だった。
しかし、開校から5年目を迎えた頃、突然テニスコートの閉鎖を余儀なくされるハプニングに。
土地のオーナー同士による又貸しが原因で、新たなテニスコート探しが必要になったのだ。
その後、現在のスクンビット・ソイ26に移転したのが2010年。
コロナを経て新たな試み
順調に事業を拡大していくなか、2020年コロナのパンデミックに見舞われてしまう。
会員数は激減したが、これを機に事業内容を大きく見直した。
会員制からチケット制に変え、YouTubeチャンネル立ち上げなど、新たな試みを行い再起を図ったのだ。
舵取りが功を奏し、現在は日本人のみならず外国人利用者も伸び、Youtubeチャンネルを見た視聴者が旅行中わざわざ訪れるなど新たなファン層を獲得している。
今回お話を聞いた金子さんと酒井さんを表現するにふさわしい言葉を探している時に、”糟糠之妻”(そうこうのつま)という言葉に出会った。”糟糠”(そうこう)とは酒粕と米ぬかを指し、貧しい食事の形容詞。
これまでの苦悩を共にし支え合い、成功を手にした後も大切にするという意味なのだという。
「世界中いろんなところに行ったけど、スタッフが安心して暮らせるバンコクが一番好きだね。」
金子さんのその一言に、酒井さんをはじめスタッフを想う「愛」が滲み出ていた。
2005年バンコクに開校したインドアテニスアカデミー
APF international tennis academies