すべては97年の経済危機が転機
私の経験をWiSEで連載いたします
副頭取
小澤 仁
タイ最大の商業銀行であり、企業としても国内トップレベルを誇るバンコック銀行。今でこそ、多くの日系企業と取引し、日系金融機関との提携も果たした同行だが、その新たな扉を開けたパイオニアの歩んだ道のりとは。小澤仁氏をインタビューした。
タイの名バンカーといえば、小澤さんの名前が揚がります
私のバンカー人生は、再建屋としての歴史です。東海銀行(現三菱UFJ銀行)に入行し、タイに赴任したのが1998年です。ご存知の通り、97年に、タイを中心に始まった「アジア通貨危機」により、アジア各国の急激な通貨下落(減価)で、混乱の真っ只中でした。
当時、日本の銀行はバブル崩壊後の処理に追われ、破綻の危機にありました。このため世界的レベルで貸し渋りや貸し剥がしをしていました。この時代、タイ所在の日系企業はアジア通貨危機と銀行による貸し剥がしの二重苦にあえいでいたのです。ところが、東海銀行では、早期再建目処が立っていたため、多くのバーツを保有していたバンコック銀行(提携先)から借り、貸し剥がされた企業へどんどん融資し続けたんです。当時の日本円で約400億円です。殆どの企業が債務超過先に分類されていました。それでも、話を聞きに周りましたよ。年間4万キロくらい走った(自動車)かと思います。
とにかく、話を聞き、お客様の商品を知り、ビジネスの展望を見極めた上で、貸し出していました。結果的に1社を除くすべての企業が金融庁検査をパスすることができました。
その後、バンコック銀行へ
そうですね。再建屋らしく振る舞い続けることで、信頼は高まり、提携先であったバンコック銀行から継続的に融資先を支え、ひいては、将来タイにとって有益になる会社を育てる手伝いをして欲しいと声を掛けられ、入行しました。入行後、すぐに日本での基盤を持たないバン銀の弱味を補完するため、りそな銀行、商工中金、日本政策金融公庫、横浜銀行、千葉銀行との提携ネットワーク構築に取りかかりました。最初は、多くの日系金融機関から門前払いでしたよ。なにしろ、日本の銀行自体が厳しい時期で、国際業務を縮小する機関が多かった時代ですから。
振り返れば、今でこそ、タイは日本と同等のサプライチェーンが構築されていましたが、当時は皆無。97年の危機の際に、大手メーカーを支えたことで、サプライヤーや中小企業がきちんと設備投資をできる体制が構築できたからですね。当時、バン銀の日系企業部は、私を含め10人弱の組織でした。今では80人の大部隊ですから、個人で抱える業務は本当に多かったと思います。おかげで、資料作り、サイト構築など、大抵の現場仕事を経験し、スタッフが増えた際に明確な指示が出せるようになりました。
まさに礎を築いたわけですね
がむしゃらに走ってきたという方が正しいでしょう。現在は、嶋村副頭取に業務の多くを任せましたので、私個人の人脈を活用した範囲内で新たな産業を生み出し、もしくは成長させることに注力していますよ。礎と例えるのであれば、タイの日系企業3500社との取引基盤に加え、日本の金融機関約20行との付き合いが最大の強みだと思います。
独自の部会を作っていると伺いました
新たな産業を生み出すために、観光、特産、商工、産学連携、新技術の5つの私設部会を作り、各分野の専門家を招いて、侃々諤々と進めています。メンバーもその道のプロのほか、“デキる人”と“やる気のある人”だけを募っています。実際にビジネスにつながる案件も生み出していますし、新たな会社も立ち上がりましたよ。
多趣味と伺いました
講演活動などは、多くの場でお話をする機会を頂戴していますね。他には、クラシックやジャズのコンサートも定期的に開催しています。連載もいくつも持っているので、執筆活動も続けていますよ。各銀行の出向者を集めた「小澤塾」もありますので、日々、充実しています。各活動に共通するのは、きちんとイメージができるかどうかです。不透明なままで物事をスタートする方もいるかと思いますが、確実に成功事例がイメージできてからの方が、上手くいくケースが多いのも事実です。
Japandesk@bangkokbank.com
333 Silom Road, Bangkok 10500 Thailand
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1944年に設立され、現在は1000を超える支店(海外には25支店)と1700万人の顧客を有するタイ最大の銀行。SET 50 Indexにも採用されている。