タイの医療水準や設備レベルは高く、最先端の医療技術を受けることができます。

このお話は、バンコクで暮らす日本人家族が経験したサミティベート病院(スクンビット院・シーナカリン院)での入院から手術、回復までを記した医療体験記です。

家族紹介

タイ在住8年目。身体を動かすことが趣味の夫、市場散策好きの妻、お絵描きが大好きな7歳の娘の3人家族。
朝から夜まで海で過ごすほど、家族全員海が大好き。

ただの腹痛だと思っていたら…
タイの医療に救われた!7歳娘の入院体験記
第2話 突然の急変 〜ECMO装着〜

入院3日目の5月2日の朝になりました。
入院してから飲食はほぼできていませんでしたが喋る元気はあったので娘とベッドに座り、会社が休みだった夫と娘と3人で医師の回診を待っていました。

この時、娘の額に汗がにじんでいるのに手足の先が異様に冷たかったのを覚えています。
しかし、汗が出てきたのは治ってきたサインかなと考えていました。

ところが、朝8時30分頃に、突然娘が叫び声を上げながらベッドの柵を強く蹴りました。
「どうしたの?」と娘を覗き込むと、いつもと様子が明らかに違っていました。

すぐに夫が走って看護師を呼びに行きましたが、その間にも、娘は私の腕の中で目の焦点が合わなくなっていきました。
娘の名前を呼んでも反応がなく、私は何が起きているのかわからなくなりました。

すぐに集中医療医が駆けつけ、何度も大声で娘の名前を呼びました。
意識を戻した娘に集中医療医はつかの間ほっとした表情を見せながら、酸素吸入などの処置をおこなっていました。

さらに、異なる科の専門医が次から次へと病室に来て、急変した原因を探りました。
すると、心電図に異常が見つかり、その後は小児心臓医が中心となって治療を続けることになりました。

娘は不安そうな表情を浮かべながらも、自分の名前を言ったり、痛い箇所を伝えたりすることができていました。
そうするうちに、小児心臓医から「危険な不整脈を治すため電気ショックをしたい」と言われ、私たち夫婦は病室の外で待機することになりました。

1時間くらいたった頃でしょうか、容態が少し落ちついたのでICU(集中治療室)へ移動となりました。
ICUの外で3時間ほど待っているとようやく中に呼ばれICUに入ることができました。

娘の部屋は一目瞭然でした。
なぜなら娘の部屋の前だけ20〜30人もの医療スタッフがいたからです。
娘は鎮静剤で寝かされた状態でしたが顔色が非常に悪くなっていました。

小児心臓医から、「病室で一旦容態が安定したが、ICU移送後に再び悪化した」「不整脈や血圧低下を改善する薬を最大に投薬しても電気ショックをしても効果があまりみられない」などの話がありました。
そして、「命を救うためにはECMO(人工心肺装置)を装着し、心臓の回復を待つ必要がある」と言われました。
ただ、ECMOをつけても良くなるかはわからず、「装着後10日前後で回復が見られない場合は心臓移植も考えなければならない」とも言われました。

その後、サミティベート病院シーナカリン院から駆けつけた小児ECMOチームが2時間かけてECMOを装着しました。
そして、小児集中治療専門施設(PICU)があるシーナカリン院のほうが包括的に治療できるとのことで、その日のうちに搬送されPICUでの集中治療が始まりました。

後から知ったことですが、入院初日に回診してくれた小児科集中治療専門医のパチャリン先生がその場にいました。
娘が良くなるまでスクンビット院を休みシーナカリン院で働く許可を病院長にとって、付き添ってきてくれたそうです。

日本人慣れしている医師なので、初めて訪れる病院の右も左もわからないPICUで、その存在はとても心強く感じました。
搬送先のシーナカリン院では主治医(小児心臓専門医・ナティパット医師)から、現在の治療についての説明や、娘が回復する割合、今後どのようなこと起りうるかなどの話がありましたが、この時はその深刻度があまりわかっていませんでした。

容態の急変、ICUでの治療、ECMO装着、シーナカリン院への搬送など、突然さまざまなことが起こり、頭も心も整理がつかないまま過ぎた1日でした。
長い闘いになるので両親も休んだ方がよいとの医師の勧めで、その夜は一旦自宅に戻りました。

娘のいない自宅に夫と2人で戻り、改めて娘の物であふれる部屋を見ると、それまで堪えていた涙が止まらなくなりました。

 

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